「全身血だらけ、必死に逃げた」 原爆孤児だった母の心の傷、語り継ぐ息子 #戦争の記憶
米軍によって広島に原爆が投下された79年前の8月6日からその年の末までに、推計で約14万人が亡くなったと言われる。生き残った人たちも、傷を負ったり、大切な家族や家を奪われたりした。体験の残酷さゆえ、語るに語れない被爆者は少なくない。 【画像】原爆投下の8月6日とらえた5枚だけの写真 でも、戦争と原爆の「記憶」を途切れさせず、できるだけ多くを次世代に伝えなければ―。広島市は、高齢になった本人に代わって広島原爆資料館や学校などに行き、証言する担い手を養成している。被爆者の子どもや孫を対象とする「家族伝承者」の研修制度もその一つ。広島県内外から集う参加者は、どんな思いで志したのだろうか。「家族である私しか代わりに語れる人はいない」。谷口敏文さん(63)=京都府宇治市=は語る。
■小さな木切れの位牌(いはい)手に涙
「みんなに会いたい」。谷口(旧姓村木)久子さん(90)=広島市佐伯区=は、79年前に原爆が落とされた「あの日」からの苦難を振り返ろうとするたび涙が止まらなくなる。手元には家族の遺影と、位牌代わりに名前を手書きした小さな木切れ。長男の敏文さんは「話してくれてありがとう」と気遣い、背中にそっと手を置いた。 敏文さんは、この春から家族伝承者になった。約1年間、原爆投下に関する基礎知識や語り方などを学ぶとともに、久子さんから体験を聞き取って原稿を書き上げた。原爆に家族6人を奪われ、孤児として戦後を生きた母の半生を語り継ぐ活動は緒に就いたばかりだ。 久子さんはかつて繁華街だった現在の平和記念公園(広島市中区)内に住んでいた。家族は祖父の繁利さん(77)、父利博さん(44)、母ツ子(ネ)さん(47)、長兄の良平さん(18)、姉の和子さん(16)、次兄の正義さん(14)=年齢はいずれも1945年当時=の6人。ちょうど原爆慰霊碑前に広がる芝生広場の辺り、旧材木町で印章店を営んでいた。
■広島壊滅の前夜 最後のだんらん
久子さんは末っ子で11歳。中島国民学校(現中島小)の5年生だった。空襲被害を回避するためという国の指示に沿って郊外の親戚宅に疎開していたものの、家族の温かさが恋しくなり7月末に自宅へ戻っていた。8月5日、呉海軍工廠(こうしょう)に勤める良平さんが休暇で帰省。その日、久しぶりに家族全員がそろった。「兄は、父の好きなお酒を手に持ち上機嫌で帰ってきた。姉がどこからか手に入れた肉の脂身を焼いて、戦時中とは思えないごちそうだった」。笑顔で食卓を囲んだ夜。「思い返すと幸せだった。あれが家族の最後のだんらんになってしまった」 6日の朝は、国民学校の講堂にいた。「飛行機が見える」と声が聞こえ、校庭に出ようとした瞬間、閃光(せんこう)に襲われた。
■残ったのは「骨らしきもの」
爆心地から約1.1キロ。倒壊した建物から自力ではい出し、必死で逃げた。背中に傷を負い、全身血だらけに。野宿をして翌朝、1人で自宅を目指したが「足の裏が熱くて前に進めない」。やっとたどり着いた爆心地から約330メートルの自宅跡一帯は、焦土と化していた。「相生橋では人々がうめき苦しみ、元安川には折り重なるように死体が浮いていた。生き地獄でした」 誰かの骨らしきものを自宅跡で拾い上げたが、6人の遺骨も遺品もない。九州の親戚宅に残っていた家族の写真が、唯一の形見となった。放射線のせいだろう。その後何年にもわたり頭痛やめまいに悩まされた。 11歳で何もかも失い「原爆孤児」となった久子さんを育ててくれたのは伯母だった。中学校を卒業後、伯母が始めた旅館で働き、調理師免許も取った。24歳の時、同じく被爆者の敬誠(ゆきのぶ)さん(95)と結婚。広島市内でも被爆者が少ない地域に住んだこともあり「『原爆はうつる』と陰口を言われるなど、差別を受けながらも互いに支え合って生きてきた」。2人の子どもに恵まれた。
■「聞くべきでない」と思ってきた息子の転機
久子さんは家族にも体験をほとんど口にしてこなかった。孤児として生きてきた母の苦しみの大きさを想像し、敏文さんも「あまりにも悲惨な体験で、軽々しく聞くことはできない。思い出させてはいけない」と考えていたという。大学進学や就職で広島を離れたこともあり、語り合うことは避けていた。 とはいえ、心の奥にはいつも「母の体験」のことがひっかかっていた。被爆75年の2020年夏、高齢で被爆者が年々少なくなっているとニュースで知り、何かせずにはいられなくなった。広島市はかねて、志を持つ第三者が被爆者に代わって体験を証言する「被爆体験伝承者」を養成している。敏文さんはまず、この研修を受けることにした。被爆者の笠岡貞江さんの体験を語り継ぐことになり、約3年間、体験の聞き取りや証言原稿の執筆と推敲を続けた。
■決意伝えた息子 心動かされた母の言葉
そんな折、「家族伝承者」も新設されると知り心が揺さぶられた。「母に何があったのか知りたい…」。一方で、「自分に受け止めきれるだろうか」という不安もあった。長い間、口を堅く閉ざしていた母を前に意を決して問いかけた。「お母さんの家族6人が生きた証を一緒に残そう。自分には被爆2世として原爆のむごさを伝えていく役割があると思う。話を聞かせてくれないか」 息子の思いが届いたのか、それから久子さんは少しずつ語り始めた。賢くて自慢だった兄のこと、誰の遺骨も見つけられなかった後悔、孤児として生きてきた悲しみ…。 敏文さんは広島と京都を行き来しながら、丹念に聞き取りを重ねた。家族なのに知らなかったことばかり。母は語ろうとすると涙を流し、言葉に詰まる。心の傷にさらなる痛手を負わせていないか―。苦悩しながらも、言葉を選びながら証言する久子さんの姿に背を押された。 「6人を忘れないでいてくれてありがとう」。広島の実家で聞き取りの最中、久子さんがつぶやいたその一言に、息子として母が長年抱えてきた苦しみや喪失を他者に伝える決意が固まった。家族伝承者として活動する場で、敏文さんは参加者に語りかける。「被爆者が経験した過酷な状況や思いをすべて理解することは困難でしょう。でも、私たちなりに受け止めることはできる」 広島市が2022年度から養成を始めた「家族伝承者」は現在38人が活動し、広島県外での講話も始まっている。本年度の研修には23人が参加。被爆体験を継承する担い手の裾野は広がっている。
■元NHKアナも新たな道へ
自らの声で全国にニュースを届けてきたNHKの元アナウンサーも、新たな一歩を踏み出した。 「熱線を受けた首や肩の皮膚はずるりとむけたそうです」。47人の聴講者に語りかけるのは、杉浦圭子さん(65)=広島市安佐南区。約1年間の研修を終え、昨年12月に父清水良治さん(92)の家族伝承者になった。 清水さんは県立広島商業学校(現県立広島商業高)の1年生のとき、爆心地から約2キロの校庭で建物疎開作業に出る準備中に被爆。大やけどを負った。杉浦さんは約50分間、自力で自宅まで歩いて戻る道中に父親が目にした惨状や心情を代弁し、語っている。
■受け継ぐ「ヒロシマの羅針盤」
杉浦さんは現役アナウンサー時代、被爆者の体験手記を朗読する広島放送局の番組「ヒバクシャからの手紙」を6年間担当した。「誰一人として同じ体験はないと知った」。もちろん、父親の体験も。幼い頃に聞いた証言を再度聞き取り、原稿にまとめた。 父親の体験を伝承する身だが、杉浦さんはこれまで出会ってきた数多くの被爆者の切なる願いも受け止めている。「平和の願いを受け継いで、とバトンを渡された」のだと。「どの人間の命も、格差はなく重い。被爆者が示してきた『ヒロシマの羅針盤』を子どもたちに伝えたい」 ヒロシマの羅針盤―。私たちが受け継ぎ、しっかりと手に持って、核なき未来を指す道しるべとして歩を進めなければならない。
■取材を終えて
中国新聞ヒロシマ平和メディアセンター・新山京子 被爆者にとっての「あの日」と「あの日から」を共にしてきた家族として、紡ぐべき言葉と思いが必ずある―。谷口さんと杉浦さんが私の背中を押してくれた。 89歳の私の祖母も79年前、遺体が折り重なる焦土の広島で原爆死した父親を捜し歩いた。遺骨も見つかっていない。その体験を語り継ぐ決意を固め、7月から「家族伝承者」の研修を受け始めた。取材で出会ってきた被爆者と祖母の、平和への願い。記者として自分が書く記事で、さらに将来は家族伝承者としても伝え続けたい。 ※この記事は中国新聞とYahoo!ニュースによる共同連携企画です